2019年10月19日

二館物語(岡本太郎美術館&登戸研究所資料館)その2



川崎市多摩区にある二つの施設(館)、前回紹介した「川崎市岡本太郎美術館」と、今回紹介する「明治大学平和教育登戸研究所資料館」へ行ってきたのでその紹介です。タイトルはディケンズの二都物語をもじりました。

明治大学平和教育登戸研究所資料館
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前回のブログで少し触れましたが、この川崎市多摩区に拡がる丘陵地帯(旧向ヶ丘遊園地、生田緑地、専修大学生田キャンパス、明治大学生田キャンパス一帯)は、旧陸軍の秘密兵器開発の拠点「陸軍技術本部第9研究所」や、軍の依頼を受け密かにレーダーなどの研究・開発をおこなっていた「日本電気生田研究所」の跡地です。

それらの土地と建物は、戦後、重要軍事施設として米軍に接収されましたが、その後日本に返還され、川崎市や各大学などに売却されてきました。

特に「陸軍技術本部第9研究所」通称「登戸研究所」の施設があった場所には、現在でも当時を彷彿させるような建物や設備跡、当時に植樹されたヒマラヤスギなどが残されています。

本来なら譲り受けた先が再開発をする時に、すべて取り壊し更地にしてから新しくするところ、最終的に購入したのが利益や効率優先主義ではない明治大学農学部だったことが偶然にも幸いし、多くの建物や史跡が残ることになります。

大学の敷地の端っこに、高さ約 2.7m,幅約 1m,奥行約 15cmの巨大な1枚岩でできた「動物慰霊碑」があります。

裏には「昭和18年3月陸軍登戸研究所建之」とあります。「陸軍技術本部第9研究所」という正式名称ではなく、通称で書かれているところになにかちょっと曰くありげです。

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単に実験で殺した小動物のために、このような巨大な一枚岩で、今の価格にすると何千万円もする慰霊碑を建てるというのは普通は考えられません。

関係者の話では、これはここ登戸研究所で研究・開発・製造された毒ガスや生物兵器などが、中国の南京へ持ち込まれ、そこで人体実験に使われ殺された多くの人々に対する慰霊碑だったというのが通説です。

戦後、敷地を買ったのが、明治大学農学部だったので、この慰霊碑を見つけた大学関係者は、過去のそうした曰くは知らず、碑銘の文字通り「農学部の実験において殺傷することもある小動物の鎮魂と慰霊をするのにちょうどよい」「動物慰霊祭を毎年この前でおこなおう」と、この碑が取り壊されずそのまま残ったということです。

同様に、大学の敷地内に古い生田神社が建てられています。元々は弥心神社(やごころ)という名称です。これは研究や知識の神様「八意思兼神」(やごころおもいかねのかみ)を分祀されたものと言われています。

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この神社も動物慰霊碑と同様に、登戸研究所が陸軍から研究の功績を称えられ、副賞として得た巨額の賞金で建立したものです。

この神社が大学が買い取った後も、残ったのは、やはりこの場所に移転してきたのが大学の農学部だったことで、豊作祈願や収穫祭をおこなうのにこの神社がちょうど良いと判断されたそうです。まったく偶然とは恐ろしいものです。

そしてこの神社の脇に新しい石碑がひっそりと建てられています。

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表面には「登戸研究所跡碑」、裏面は「すぎし日は この丘にたち めぐり逢う」という句が書かれています。建立されたのは終戦から43年後の1988年(現在から31年前)です。

句の意味は、「登戸研究所で働いていた人は、その秘密を固く誓い合ったが、長年が過ぎ、再びこの地でようやくその時の話しができるようになった」という思いを込めた句らしいです。

この研究所で働いていたのは軍人だけでなく、学生や取引業者など含め、民間人も多く雇われていたので、敗戦後に「なかったことにする」ため「秘密はすべて墓へ持って行く」と相当きつく箝口令がひかれたようです。

それだけに、その贖罪の気持ちや家族や親しい人にも打ち明けられない気持ちなど、苦しんだ人も多いだろうと想像できます。

さて、最後は資料館です。

資料館の中には、この登戸研究所の歴史から、研究されていた内容、その成果まで多岐にわたり展示がされています。

資料館自体も、当時の研究所の建物をそのまま利用されていますが、戦前の建物とは思えない、頑丈に作られていて、平屋で天井が高く、当時の最新の研究設備や空調機器などが施されていたようです。

登戸研究所で開発された兵器でもっとも有名なのは「風船爆弾」で、これは当時の気象庁の担当者から「ジェット気流に乗せて日本からアメリカ本土へ爆弾を飛ばすことができる」というアイデアが出てきて、ここ登戸研究所で研究・開発されました。

水道設備も近くにわざわざ浄水場を作り、配水管を通し、水栓も当時進んでいたアメリカ製のものを使っていたそうです。

左:風船爆弾模型 右:キャンパス内にある当時の消火栓(五芒星=陸軍マーク)
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直径20mの和紙で出来た巨大な風船に水素を詰め、時限発火式の爆弾や焼夷弾を積み、実際に太平洋岸から9300発が放たれ、そのうち1000発以上がカナダやアメリカの北米大陸に到達したということです。

しかし残念ながら、風船なので、せいぜい30kgぐらいの爆弾や焼夷弾しか搭載できないので、心理的効果はともかく、実質的な成果はなかったそうです。ただアメリカ史上、本土が空爆されたのはこれが最初で画期的なことだったようです。

その他にも、この登戸研究所では、中国経済を破綻させるため中国の紙幣を大量に印刷していたり、ジュネーブ協定に違反する毒ガスや生物兵器を開発、製造していましたが、そうした戦時下における非道残忍なこともひっくるめて、登戸研究所です。

今は若い人を中心に、戦争が忘れられてきていますが、この長く隠蔽されてきた登戸研究所を研究テーマとして調べ始めたのが30年ほど前の川崎市の高校生(法政二高平和研究会)だったということや、こうした不都合な真実である史跡などが大学とは言え一民間企業の敷地内で奇跡的に残されていたことに感銘を受けました。

もし明治大学農学部でなく、オリエンタルランドや森ビルがこの土地を購入していたら、今頃は史跡は跡形もなく、ディズニーランドは千葉ではなくこの広い丘陵地帯に、虎ノ門ヒルズや六本木ヒルズではなく、近代的な高級オフィス兼マンション、生田ヒルズが生まれていたかもです。

見学は無料で、大学キャンパス内は広く、カフェやレストラン、それに1984年冬のマッキリーに消えた明治大学農学部OBの植村直己氏のモニュメント(写真下)もあり、家族連れでブラッと訪れるのも良いかも知れません。

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二館物語(岡本太郎美術館&登戸研究所資料館)その1

【考察シリーズ】
バカバカしい軽自動車の馬力規制の考察(考察シリーズ30)
自動車の車幅に関する考察2(考察シリーズ29)
自動車の車幅に関する考察1(考察シリーズ28)
自動車盗難(2013)の考察(考察シリーズ27)
ラリーアートとSTIの明暗について(考察シリーズ26)
衝突防止装置の普及を加速するための考察(考察シリーズ25)
ランエボの維持費についての考察(考察シリーズ24)
もっと光をあてていい軽自動車の考察(考察シリーズ23)
高速走行中に集中豪雨に遭った時に関する考察(考察シリーズ22)
自動車部品の革新についての考察(考察シリーズ21)
ドアロックする?しない?についての考察(考察シリーズ20)


posted by makan at 10:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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