東日本大震災からまもなく2年が経とうとしています。一度は被災地を見ておきたいと思いながら、ボランティアでもなく、知人のお見舞いというわけでもなく、単なる物見遊山で行くのはどうかと思い悩み続けていました。
何人もの人の命が奪われた現場を興味本位で訪れ、復興作業に従事している人の邪魔していると非難する声もありますし、一方では観光客が激減して観光業界が悲鳴をあげているという話しもあります。
最近では被災地の様子を全国ネット放送で報道される機会もすっかり減り、やはりこの目で見ておきたいのと、2年近くが経ちこのタイミングであれば、復興の邪魔にはそれほどならないだろうということ、さらに休みがまとめて取れたので思い切ってひとりで東北の被災地をまわってきました。
以前、阪神淡路大地震が起きたときは、東京で勤務していましたが、会社の同僚が関西でたいへんな思いをしていることもあり、救援物資を持って新幹線が動くようになってから神戸へ行ったことがあります。その時目にした想像を絶する光景は今でも深く記憶に残っています。
東北へは過去には仕事で仙台や秋田へは行ったことがありますが、太平洋沿いは行ったことがありませんので、風光明媚で結果的にはそれが津波の被害を大きくしたリアス式海岸を走ってみたいということもあります。今回は2泊3日でゆっくりとひとり旅です。
まず初日は川崎市の自宅を出て一気に岩手県の陸前高田市まで行き、そこから海岸沿いを南下して松島で宿泊予定です。
川崎から東北道へ出るには都内を通過しなければならないので、出発は都内の道が混み合う前の6時に出発します。また辺りは真っ暗の中、用賀から首都高に乗り、都内を抜けて、東北道へ入ります。東北道へ入ってしばらくすると陽が昇ってきます。

あとでわかったのですが、岩手まで距離にすると500km近くありますので、本当ならば深夜の2時とかに出発し、朝方に岩手に到着するようにすればよかったと反省です。というのも関東より北に位置しますので日暮れが早く、この季節、晴れていても4時半ぐらいにはかなり薄暗くなり、5時を過ぎるともう真っ暗で、朝の時間を有効に使わないともったいないです。
途中で休憩やガソリン補給を挟み、一関(岩手県)インターで降ります。道路に雪はありませんが、周辺には結構雪が積もっています。外気温も昼近くでも0度を指しています。

一関ICから県道19号、国道343号を使い、最初の被災地、陸前高田市を目指します。途中いくつか峠道があるので、雪が心配でしたが、メインの道は通行量も多く、峠の頂上付近でせいぜい1kmぐらいの雪道で済みました。もちろん古いけどスタッドレスタイヤです。
途中の国道にループ橋がありました。雪道でのループは初めてですが、もちろん飛ばすような無謀な真似はいたしません。

最初に訪問する陸前高田は「奇跡の一本松」で有名だったところです。残念ながらその松は海水をかぶったために根が腐り1ヶ月前に伐採されています。
まず陸前高田市全体を山の中腹から眺められる気仙成田山(如意山金剛寺)へ。そこから市内の光景を見ると、知らないとこれが普通の景色と思いがちですが、整地されたり原っぱになっている場所には元々住宅や商店がビッシリと建ち並んでいたということに驚きます。
写真上は震災前の風景、写真下がほぼ同じ場所から撮った現在の風景

気仙川に架かる橋も橋脚だけを残し完全になくなっています(上)。川沿いの陸前高田市立気仙中学校は3階まで壊れています(下)。

途中黄色いハンカチが何枚もあげられている場所がありました。元大工の住人が、流木を支柱にして自宅跡の更地に飾られたものでした。「皆で古里に帰ろうよ」という願いが込められているそうです。
もっとゆっくりと市内をまわってみたかったのですが、初日はこのあとまだ先が長いので、次の気仙沼(宮城県)を目指します。
気仙沼市も津波被害の大きかったところで、個人商店や住宅と思われる場所はまだ更地のままのところが目立ちました。しかし街全体の規模が大きいせいかビジネス街や漁港を始め復興も割と早く進んでいる感じです。
気仙沼市街の様子(上)と漁港の施設(下)

昼時を過ぎてお腹が空いてきたので、気仙沼市内にあった復興屋台村でなにかを食べようと寄ってみましたが、残念ながらこの日は定休日の店が多く、またお昼時を過ぎていたためか準備中の店があったりして食べられませんでした。そのあと震災後にリニューアルされた気仙沼駅へ。屋根の絵が鮮やかです。
復興屋台村(上)と気仙沼駅(下)

山の上にあって気仙沼市内を一望できる「海のみえるおべんじょ」がある公園をナビで探したのですが結局見つけられず、断念し、次の南三陸町(宮城県)へ。
南三陸町は、津波に襲われるまで住民に避難を呼びかけをして殉職された職員が詰めていた防災対策庁舎の赤い鉄骨が残されているので有名です。動画にもありますが、屋上に数十人が避難をしていながら、その屋上まで津波が押し寄せ、屋上のさらに上にあるアンテナなど鉄塔に登りつかまっていた数名だけが助かったというビルです。

この鉄骨だけ残った建物をモニュメントとして保存するか、取り壊すかで町の意見も二分されているようです。とにかく辺り一面で残っているのはこの建物だけで、あとはほとんど更地になっています。
南三陸町から石巻市へ向かいますが、その途中にあるホテル観洋(HOTEL KANYO)へ立ち寄ってようやくランチをいただきます。時、すでに15時半を過ぎています。誰もいない眺めのいいレストランでとっても美味しいラーメン(750円)をいただきました。

このホテルの広いロビーやレストラン、ラウンジはすべて大きなガラス張りになっており、窓一面が雄大な太平洋で一見の価値があります。それに無線LANが使えます。一応パスワードがかかっていましたが、想像して入力すれば一発でつながりました(英小文字で5文字)。
陽もだいぶんと落ちてきて暗くなってきた頃に新北上川に架かる臨時に造られた橋を渡ると、全校児童108人のうち74人と教職員10名が死亡・行方不明と大惨事となった石巻市立大川小学校です。とてもやりきれない思いがします。

すっかり陽も落ちて今日の宿がある松島へ向かいます。住宅街の狭い道をクネクネと走りながら大丈夫か?と思っているとちゃんとありました。料金はそこそこしただけあって部屋やお風呂はゴージャスです。ちなみに予約は1泊朝食付きのプランなので夕食は済ませていくなど自己解決です。しかし早朝から600km以上走ったのと多くの被災地を見て食欲もなかったので、途中のコンビニでお弁当を買って持ち込みました。
1日目の走行距離約670km
(B)陸前高田 (C)気仙沼 (D)気仙沼駅 (E)南三陸町 (F)南三陸ホテル観洋 (G)大川小学校 (H)松島
東北被災地応援ツアー2日目に続く
◆ランエボからN-WGN経由ポロGTI日記 つるかめつるかめ INDEX